中学時代の恩師との再会


 この時以来の会合を、またまた同じメンバーで持てました。ありがたく、嬉しいことです。

 それにしても、記憶にないことが発覚してビックリ…いくつかあった中で最たるものは、『当時、毎日の暖房用の灯油使用量は配給で決まっていた。我らが3BはSやTなどの寒がりのお陰で毎日その配給量だけでは足りず、女子も含めて有志が自宅から灯油をペットボトル等に詰めて持ち寄っていた』という事実。メンバー的にも事案的にも、そういうことがあるなら間違いなく乗っていたはずなんですが、全く記憶にないんです…いやービックリ。帰宅した今でもちょっと信じられない気分。。。

 次は来年かな?

コメント(8)

教室に暖房があったんですか??? とても信じられないですが。
私の中学時代の恩師(仇名はオットセイ)は風の便りに彼岸に渡られたと聞いて記憶にある場所に伺ったのですがお住まいがありませんでした。
3年生の時だけ、たった1年間の担任でしたが海軍士官出身で学問よりも人として素晴らしい方でした。
ぐうたらだった私が立ち直れたのは、この先生のおかげです。忘れられませんね。

僕らの時代?は、外部まで煙突配管のある石油ストーブが各教室の真ん中にでんと据えられてまして、確か小学生の頃は、その上にある標準装備の金網で弁当や牛乳を温めたりしてました。

 オットセイ先生、素晴らしいですね。僕の場合は本当にいろいろ・こそこそと悪いことばっかししてた小中学生時代でして、中三が唯一今でも笑って振り返られる学年だったのは、今回の先生のお陰です。一生に一度でもそういう先生に巡り会えたことは、ありがたいことだと思います。

おはようございます。お世話になります。

高校でこの業界に浸るきっかけとなった恩師、物理部のJR6御大は、アンテナいじりで突然召集を掛けてこられます。

そのようなつながりがあるのも、またいいですね!

 そういえば我が恩師、ちょうど僕らが卒業した年の春だったかにお引っ越しなさいまして、その時にお手伝いさせていただいたことを思い出しました。さほど体力も要領もなく、運転免許すらないガキが数人寄ってしまって、かえって足手まといになったことでしょうねぇ。次回はその時のお詫びをせねば。

そうえば、高校の日本史の大畑先生は海軍さんだったそうで、授業中にレイテ沖海戦のはなしをよく話しておりました。通信の話もよくご存知で、駆逐艦のアンテナが海水を被って役にたたなかったと言っおりました。

まさかその海戦から生還なさったのではないと思いますが、アンテナが潮を被ってというのはおそらく給電部のことなんでしょうね。そういえばフェリーなどに乗っても、どちらかというと煙突などが気になってしまい、レーダ以外のアンテナに目をやったことがありませんでした。

お疲れ様でした。
帰ってのみすぎバタンキュー
灯油、私もペットボトルに入れて持っていっていた一人ですよ。

また来年ですね。

遠路(?)お疲れさんでした。いやホンマ、それ全然記憶にないんでビックリでしたわ。飲み過ぎバタンキューについては、前科者なんで気ぃつけてました(^^;

 また次回もよろしく!! それとは別に、そっち方面もご挨拶込みでいっぺんお邪魔さしてもらいますわ(^^)

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このページは、ji3kdhが2014年6月 7日(土) 23:15に書いた記事です。

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